これからの人生の話をしよう

平凡なリーマンが綴る 人生についての考察ブログ

本当の私という違和感

今日は、自己実現について考えよう。

 

ある物事について考えるためには、その言葉を定義しなければならない。というわけで、ネットの検索欄に「自己実現」と入力して、検索ボタンを押してみる。結果は、こうだ。「自己実現」とは、「自己が本来もっている真の絶対的な自我を完全に実現すること」である。

 

色々突っ込みどころがある。

 

まず、「自己が本来持っている真の絶対的な自我」とは何か。そもそも、本来持っている自我とは何か。世俗的な言葉で言えば、「本当の自分」といったところだろう。

 

では、「本当の自分」とは何だろうか。胸に手を当てて考えてみよう。「本当の私」とは、どんな私だろう。一人でいるときの私だろうか。恋人と一緒に笑っているときの私だろうか。好きでもない上司に媚びへつらっている私だろうか。どんな私を思い浮かべても、ぱっとしない。

 

だったら、嘘の私というものを考えてみよう。

 

飲み会で場の雰囲気を壊さぬよう作り笑いをする私だろうか。女性にキレイだねとお世辞を言っている私だろうか。仕事量に溜息を吐きつつ何でもないように振る舞う私だろうか。確かに、これらの私は、本音を表出させることはない。対外的には嘘をついていることになる。しかし、だからといって私本体が嘘の存在であるわけではない。(そもそも私という存在は、本物でしかあり得ない。)

 

ただ、世間的な感覚で言えば、これは嘘の私ということになるだろう。本音を押し殺し、素直に感情を表出させていないからだ。そして昨今、この嘘の私というものが、悪であると認識される。嘘の私でいることは、多くの人にとってストレスであり、生きづらさに繋がるからだ。

 

しかし、本当に嘘の私は悪なのか。そう錯覚しているだけではなかろうか。よくよく考えてみると、常に本音で生きよというのには、多分に無理がある。

 

例えば、本音では「働きたくない」としても、働かなければ食っては行けぬ。だから皆働くのだろう。これが嘘の私だからといって悪かというとそうではない。むしろ、善いことではないだろうか。

 

働くということは、私以外の他者に貢献するということである。他者への貢献を悪と断ずる者はいない。やはり、善いことである。

 

ここに視点の変化がある。

 

「嘘の私」とはつまり、「私の本音を殺している私」ということである。これを悪と言っていた。しかし、先の例では、私以外の他者がいたため、私だけの世界で完結することはできない。「嘘の私」と「他者」がいる。「嘘の私」がいることによって、「他者」は価値を得る。私は生きづらいかもしれないが、他者は喜ぶ。この場合、「嘘の私」は悪にはならない。

 

このことからわかることは、「本音で生きよう」と言う人々は、自己完結の世界を生きているということだ。もし、世界に他者の存在を認めるならば、彼・彼女らのために「嘘の私」でいる必要も出てこよう。

 

それを無視して、「本当の私」を固守するのなら、それは個人主義への傾倒と取られかねない。

 

もとより日本人は、滅私奉公の精神が根付く民族であるからして、個人主義への傾倒には違和感を抱く。滅私奉公が正しいというのもまた傾倒論であるから、どちらが正しいとも言えない。言えるのはただ、どのようなイデオロギーの中で生きているかということだけである。

 

そして、私たちはどのイデオロギーを生きれば、「快」の感情を抱くか分からない。これを知るためには、文化・宗教・歴史・社会・遺伝から紐解いていく必要があるのだろう。